雪椿(ユキツバキ)という花をご存知でしょうか。東北から北陸にかけての寒い地域に生育する椿の一種です。私たちがよく知る椿は、まだ冬の寒さが厳しい2月から春の陽気を感じる4月にかけて旬を迎えますが、雪椿はそれより少し遅く、生育地域の雪解けにあわせ、4月から6月の間に花を開きます。豪雪地帯の雪の重みに負けることなく冬を越し、遅く訪れる春の息吹とともに花開く、非常に強い生命力を持つ花、それが雪椿なのです。
今回は、そんな雪椿をイメージさせる日本ワインのお話です。その名も“深雪花(みゆきばな)”。2019年に開催されたG20大阪サミットのワーキングランチで、各国代表に供されたことでも有名な赤ワインです。ラベルに描かれているのは雪椿の可憐な赤い花。洗練された和のデザインに包まれる深雪花の誕生には、川上善兵衛という一人の偉大なワイン醸造家が大きく関わっています。その歴史を読み解きつつ、深雪花の魅力をお伝えします。
“日本ワインの父”が生み出した傑作
深雪花を造っているのは、新潟県にある“岩の原葡萄園”という、1890年創業の老舗ワイナリーです。創業者は“日本ワインの父”と呼ばれる川上善兵衛(かわかみ ぜんべえ)。彼がそう呼ばれる理由は、日本を代表するワイン用ブドウの品種を開発したその人だからです。
川上善兵衛は、多数の小作人をかかえる新潟の大地主の家に生まれました。若くして父を亡くし、弱冠7歳にして家をつぐことになった善兵衛。当時、雪深い新潟では毎年の雪害によって農作物に損失が出続けており、若き当主の善兵衛も稼業が直面する問題に頭を抱えていたと言います。そんな折、昔から家どうし親交が深かった勝海舟の元を訪れた善兵衛は、舶来のお酒、葡萄酒を口にします。その味わいに感銘を受けた彼は、「ブドウを栽培し葡萄酒を造れば、農民たちの救済につながるのではないか」と考え、ワイン造りをスタートさせました。
しかしその時、日本のワイン造りは大きな壁に直面していました。ブドウには、生食に向くアメリカ系品種とワイン醸造に向くヨーロッパ系品種があります。ところが日本の気候条件ではヨーロッパ系品種の栽培は難しく、当時の技術ではほぼ不可能とされていました。そこで善兵衛は、日本でも確実に育ち、日本人の舌をうならすワインの原料となるブドウの品種開発に乗り出しました。そして、なんと1万回をこえる交配実験を行い、22品種のワイン好適種の開発に成功します。そのうちの一つが“マスカット・ベーリーA”。アメリカ系品種とヨーロッパ系品種をかけあわせた、ハイブリッドなブドウです。このマスカット・ベーリーAこそ、今回ご紹介するワイン“深雪花”に使われているブドウなのです。
近年、マスカット・ベーリーAは日本を代表するワイン用ブドウの品種へと成長し、2013年には国際ブドウ・ワイン機構(OIV)に登録されました。OIVに登録されると海外でもワイン用ブドウとして正式に認められたことになり、国際的に高い評価を受けるようになります。現在のところ、日本の固有品種としては“甲州”と“マスカット・ベーリーA”の2種のみが登録されています。
“日本ワインの父”が創業したワイナリーで、“日本ワインの父”が生み出したブドウを使って造られたワインこそ、この深雪花なのです。
厚い雪の壁に守られて春を待つワイン
善兵衛の発明は、新しいブドウの品種だけではありません。彼は豪雪地帯の知恵である“雪室(ゆきむろ)”を利用したワイン醸造を行った最初の人でもあります。
“雪室”とは、雪国上越に古くから伝わる天然の冷蔵庫のこと。冬の間に積もった雪を使って建物全体を覆い、内部に冷気を閉じ込めて冷やすという非常にエコなシステムです。環境に優しいだけでなく、電気冷蔵庫よりも室内の温度を正確に保つことができるため、食品にストレスを与えることなく長期間フレッシュな状態で貯蔵できると言われています。善兵衛はこれをワイン醸造に応用したのです。日本酒には、雑菌が繁殖しにくい寒い季節に酒造りを行い酒質を高める“寒造り”という製法がありますが、彼はこのやり方をヒントに、雪室を用いてワインの低温発酵システムを発明しました。
岩の原葡萄園では今でも雪室によるワイン造りを行っています。深雪花は厚い雪の壁に囲まれた熟成庫で春の訪れを待ちながらじっくり熟成されるのです。その姿はまさに、雪椿のようです。
マスカット・ベーリーAのチャーミングな味わい
マスカット・ベーリーAから造られる赤ワインは、とても綺麗で明るいルビー色をしています。それはまるで椿の花のような、生き生きとした明るい赤色です。グラスに注ぐと、向こう側が透けて見えるほど純粋な赤。
最大の特徴は、飲む人の気分を高める楽しげな甘い香りです。その香りはしばしば、ザラメで作る綿菓子に例えられます。とても香ばしい甘い香りで、ワインの世界では“キャンディ香”なんて呼ばれたりもします。「フレッシュなイチゴのように甘い」と感じる人もいます。
飲み口は軽く、渋みは控えめ。「赤ワインの重たい感じが苦手」という人でも飲みやすいワインです。口に含むとほんのり甘く、舌の奥の方で丸みのある酸味が心地よい後味を演出します。このような味わいを一言で表すために、“チャーミング”という表現を使います。主張しすぎない奥ゆかしい味わいは、大和撫子のチャーミングな笑顔を連想させます。
深雪花にもこれらの特徴がしっかりと現れています。それに加え、“樽熟成”(木樽を使った熟成)により加わる木の香りがほんのりと鼻腔を刺激し、より香ばしさを強く感じます。樽の木の香りは“バニラのような香り”と表現されることもあるので、ぜひ飲みながらバニラのニュアンスを探してみてください。
食卓に“+深雪花”
深雪花のアルコール度数は12度。赤ワインの中では控えめな方です。飲み口の軽やかさは控えめなアルコールからも感じ取ることができます。しかし雪室の中でじっくり樽熟成されているため、決して単調ではありません。発酵に使われた酵母から旨味成分が溶け出し、味わい豊かに仕上がっています。
不思議なことに、マスカット・ベーリーAの甘みはまるでミリンのような働きをしてくれます。そこに旨味成分が組み合わさる深雪花は、まるでお出汁のよう。そのため、出汁やミリンの風味が生きた和食ととても合わせやすいのです。
お薦めのペアリングメニューはお味噌汁です。これからの季節、ナスやミョウガなどの夏野菜を入れさっぱりと仕上げたお味噌汁を合わせみてはいかがでしょうか。意外かもしれませんが、ワインとお味噌汁は合わせやすいと言われています。中でも、日本で育まれた日本固有品種のブドウから造られるワインは、お味噌汁との相性が抜群です。
他には、甘辛いタレを絡めた焼き鳥もお薦めです。マスカット・ベーリーAは醤油味をベースにしたお料理との相性が良いと言われていますが、さらに深雪花には木樽由来の香ばしさがプラスされており、タレの焼き鳥の香ばしさとの相乗効果を感じることができます。
もうひとつ、ワインとお料理のペアリングの基本である“色の法則”にのっとったお薦めメニューは、カツオやマグロなどの赤身のお刺身です。こちらも深雪花をお供にしながら、醤油につけてお召し上がりください。山葵や生姜などの薬味は、お料理とワインのつなぎの役割を担ってくれますので、ぜひお試しあれ。
最後に
椿の花言葉は「控えめな素晴らしさ」です。雪椿をイメージして名付けられた深雪花は、まさに椿のように控えめに、しかし素晴らしい味わいを私たちに提供してくれる名脇役なのです。
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